――
地歴公民教室
――
男子会は残念ながらさせてもらえなかったので、一人でぶらぶらっと校内を歩いていたら件の地歴公民教室を見つけた。この学校に通ってもう二年経つが、ここに来た記憶はない。こんな所にあったんだ、スウも目の付け所がいいな。
……というか、穴場過ぎて人の気配が全くないように思えるんだが。
お、準備室だ。こういう準備室には一度入ってみたいなと思っていた……おお、しかも鍵がかかっていない。
――ガチャリ。
――
地歴公民準備室
――
好奇心に任せて扉を開けてみたが、あれ、誰もいない。こんなにたくさん本が置いてあるのに部屋を開けっぱなしというのは流石に管理がずさん過ぎやしないか。とりあえずその辺に座ってみる。
ふう。
――高校三年生の春。
シキネ「春眠あか……つきだっけ、シモツキだっけ……ああ……」
嘘つきだったけか。
なんだか日当たりが良くって寝てしまいそうだ。
というか、寝た。
――
地歴公民準備教室
――
シキネ「ん……」
ああ、本当に寝てしまった。まだチャイムは鳴っていないと思うけど……。
だんだん、ぼんやりしていた視界がクリアになってきた。だってほら、目の前に顔が……。
??「え」(きょとん)
シキネ「は」
??「うわあ!」(驚き)
シキネ「うごおぉ!」
彼女はびっくりついでに勢いよく飛びあがった。仕方ないだろう、なんせ物凄く顔が近かったのだ。俺は飛び下がろうとしたが、椅子からはたらく垂直効力というものがあってそれはできず、ただ顎を机にぶつけただけだった。
シキネ「ど……どちら様ですか?」
チリコ「あ、あのう……私、チリコです。じゃなくてっ……え? えっと……この部屋に私以外の人がいるのが珍しかったので、その、誰かな……って」(慌て)
なんだか、すごくピョコピョコしている、小動物みたいな子だった。髪の毛は二つに縛っていたが、チカちゃんのツインテールとは違って素朴で地味な雰囲気をしている。これは二つ縛りと呼んだ方がいいのかな。目は切れ長で、まつ毛も長く、ちょっと色っぽい、艶っぽいような気が一瞬したが、一瞬は一瞬で、全体で見るとやっぱり小動物だった。
シキネ「そっか。ところで、先生も誰もいないみたいだけど……ここっていつも鍵はかかってないの?」
チリコ「いえ、いつもかかっていますよ、地歴公民教室も準備室も両方。ただ、さっきは私がちょっと外に出てしまっていたので……」(もじもじ)
シキネ「へえ、どこ行っていたの?」
チリコ「ちょっと……」(もじもじ紅潮)
シキネ「ちょっと……?」
チリコ「……」(もじもじ紅潮)
シキネ「ああ……トイレか」
チリコ「……ハイ」(もじもじ紅潮)
シキネ「ああ……スッキリした?」
チリコ「……ハイ」(すごく紅潮)
……何を聞いているんだろう、俺は。いや、これも俺が望んだ世界なのだから、いや、いい加減目を覚ませ、寝ボケるな、このままでは捕まってしまう。
シキネ「こほん、えっと、ということはここに来るには職員室から鍵を借りてこないと駄目なのかな?」
チリコ「はい……普通はそうです」(デフォ)
シキネ「ん、普通はって?」
チリコ「ええとっ……実は私、合鍵をもらっているんですよ」(もじもじ)
シキネ「え、どういうこと?」
チリコ「実は私、地形図などの地理っぽい資料を見るのが大好きで、毎日ここへ来させてもらっているんですよ、去年入学して以来ほぼ毎日」(もじもじ)
シキネ「は」
チリコ「それで、事務の人も鍵渡しが面倒になってきたみたいで、合鍵を私にくれたんですよ……あ、あんまり人に言わないでくださいね?」(もじもじ)
シキネ「地理オタク……っていうやつかい?」
チリコ「……そうかもしれません」(もじもじ紅潮)
地理オタク……聞いたことがあるぞ。確かフローリングなどの木目を地形図の等高線に見立てて「お、良い地形だな、ここにミカン農園でも作ろう」とかやっている人たちのことだ。何が楽しいんだろう。社会科が苦手な俺には理解できない趣向だ。
シキネ「えっと、去年入学したってことは君は二年生だよね?」
チリコ「はい、そうです」(デフォ)
シキネ「そっかあ、残念だなあ」
チリコ「何のことですか……?」(きょとん)
君を地理担任として勉強会に引き入れれば教室も確保できて一石二鳥だと思ったんだけど……なんて言うのはさすがに自己中心的過ぎるかな。
シキネ「俺、地理を誰かに教えてもらいたいなと思っていたんだけど」
チリコ「はい」(きょとん)
シキネ「さすがに二年生だもんね、無理だよね」
チリコ「あーはい……そうですね……」(もじもじ)
シキネ「だよね……」
チリコ「はい……せいぜいわかるのは大学受験レベルが関の山ですよ……」(もじもじ)
シキネ「あー、えー、あー……。え?」
チリコ「ああ、でも国公立の記述問題とかはたまに難しいのがありますよね……」(きょとん)
シキネ「ちょっと待ってね、え、大学受験レベルだったらわかるの?」
チリコ「え……はい、たぶん。このへんにある問題集はだいたい解いてみたので……おそらく……」(もじもじ)
シキネ「いや俺、大学受験するんだけど……」
チリコ「……?」
というかあれだ、大学受験レベルを超えた地理ってなんだよ。全っ然想像できないし、この子の偏執的な地理熱に若干の恐ろしささえ感じてしまった。チカちゃんといい、なんでこの子らはこんなに勉強が大好きなんだろう……よくわからない。
シキネ「そういうわけで、どうか俺にセンター地理を教えてください」
よくわからないが、とりあえず土下寝した。
チリコ「わわわ、そんなっ、頭を上げて下さいっ!!」(慌て)
シキネ「オネガイシマスー」
板張りの床に顔を擦りつけると懐かしい血の匂いがした。
チリコ「わかりましたっ。あのあのっ、私は全然構わないんですけどっ、センパイは私なんかでいいんですか……?」(もじもじ紅潮)
シキネ「君がいいんだ……チリコ」
[キリッ]
チリコ「はわわっ、そんなこと言わないでくださいよっ! わぁ、なんだか恥ずかしくなってきました……」(もじもじ紅潮)
シキネ「かわいいね、チリコちゃん」
[キリッ]
チリコ「はわわっ、だからそんなっ……!」(すごく紅潮)
とりあえずそんな感じで、この日は地理の話なんて全くしないまま昼休み終了のチャイムが鳴る前に地歴公民教室をあとにした、またそのうち来るねという約束を取り付けて。
――
教室
――
教室に戻るとスウが俺の席に座っていて、彩里さんと楽しそうにお話していた。
シキネ「またぷるるん女子トークしているの?」
スウ「ぷるるん……何それ?」(きょとん)
シオ「今ね、勉強会はやっぱり図書室でやるのがいいねって話していたんだよ」(笑顔[開眼])
シキネ「え、なんで……?」
スウ「雰囲気の問題。図書室みたいな場所じゃないとお喋りしちゃいそうじゃん?」(苦笑)
シオ「それに、曜日によって教える教科を変えれば大勢で押し掛けることもないかなって」(笑顔[閉眼])
シキネ「ああ……そうですか……」
スウ「うん、がんばろう」(笑顔)
シオ「今度からシキネくんも一緒にお弁当食べようよ」(笑顔[閉眼])
シキネ「ああ……うん……」
結局チリコのことは話せなかった。
シオ「でさ、スーパーソレノイド理論っていう架空の理論があるんだけど」(笑顔[閉眼])
スウ「その、なんだっけ、さっきのカルーツァ=クライン理論を適用するの?」(きょとん)
シオ「そう。でも私、線形代数もトポロジーもかじったくらいだから数式の運用がよくわからなくってね」(残念)
スウ「聞いた感じだと計算自体はそんなに高度なことやってないと思うけど、むしろ私にはこの文字式が何を表しているのかがさっぱりだよ……」(苦笑)
シオ「基本的な考え方は三平方の定理と変わらないんだよ、5次元空間ってだけで」(笑顔[閉眼])
スウ「へえ、それは興味深い!」(デフォ)
シキネ「……」
スウが今座っている席は俺の席だ。……だけどもうそこは俺の居場所ではなくなっていた。さらに、ぷるるん女子トークからハゲタカ理系トークに変わったせいでより一層二人の作り出す固有空間には入りづらくなってしまっていた。ああ、なんか聞いたことがあるぞ、これが「弱い力」か、近づけやしないし、会話に入れやしない。
もういっそ地歴公民教室に戻ろうかと思ったところでチャイムが鳴った。
スウ「いやー、楽しかった」(笑顔)
シオ「うん」(笑顔[閉眼])
一体何が楽しいというのだ、わけがわからない。
スウ「ごめんね、席取っちゃって」(苦笑)
シキネ「チャイムに救われたと思いなよ……」
スウ「え……」(きょとん)
シキネ「いや……救われたのは俺の方か……」
スウ「わけわかんない……」(きょとん)
わけがわかる日が来るのはまた別の話。

冴木チリコ(地理)
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